防災・減災への指針 一人一話

2013年11月20日
学校・地域・市の今後の連携
多賀城小学校 主幹教諭
松浦 晃弘さん
多賀城小学校 養護教諭
星 ゆりさん

情報の大切さと入手方法

(聞き手)
災害を通じて、学んだ教訓などはありますか。

(松浦様)
ここは教育現場ですので、子どもたちの安全を第一に考える必要があります。そのため、災害時リアルタイムでの刻々と変化する状況や情報を常に収集しなければいけないと思いました。
例えば、集中豪雨などは突然来る地震と違い、ある程度予測できるので、降雨に備えた情報収集が勝負になってくるかと思います。
それに対し、地震等の災害は事前情報がない場合が多く、災害が起きた後での迅速且つ正確な情報を、報道機関や教育委員会等、行政を通して細かく得て、対処していくことの大切さを感じました。

(星様)
私は、宮城県沖地震を小さい時に体験しました。
しかし、その時は子どもで、恐怖で泣きながら家に帰ったという事しか記憶にありません。
震災前の対策として、平成18年に神戸の養護教諭の方が仙台に来て講演をしてくださった事がありました。その中で、保健室は空けておいた方がいいという話があったので、フリースペースのような形で空けました。
震災直後、学校の保健室は、地域の医師による臨時の診察室(救護所)になりました。
震災を経験された方のお話を聞いておいて参考になりました。

(聞き手)
 発災直後の状況と、その後の行動についてお聞かせください。

(星様)
発災時は保健室にいました。1階でしたし、建物は新しいので、恐怖を感じるような揺れではなかったです。
保健室を出て、廊下にいる子どもたちや一年生の教室を見回れるくらいの体感でした。
校庭に避難する指示が出た後に職員室が空だったので、とりあえず職員室に待機して欲しいと指示されました。
様々な養護教諭のお話を聞くと、子どもたちのいる場所に行って子どもたちの健康観察をしたようなのですが、私は職員室にいたため、今振り返ると、子どもの近くにいてやれなかったというのは、養護教諭としてどうだったのかという思いをずっと持っています。
幸い校舎も無事で、怪我人もなく、先生たちもしっかりしていたので子どもたちも泣き叫ぶことはありませんでした。
子どもの引き渡しと同時に、避難の方もたくさん来ていたため、対応などに追われており、養護教諭というよりも一般職員のようだと感じていました。
多賀城小学校は高台にあるので、避難のため、付近の住民の方々が一斉に来ました。
そのため、子どもたちを多目的ホールという小さいホールに移動させ、一般の方たちは体育館に入れるように、先生たちが一斉に動きました。
避難者の受け入れという役割分担がない中、子どもたちを守りながら、多くの避難者の受け入れを行った咄嗟の先生たちのチームワークは凄いと感じました。
初めは、市職員の方もいなかったので、学校判断でよくやったと思います。

(聞き手)
子どもたちは比較的冷静だったとの事ですが、周りの住民の方はどういう状況だったのでしょうか。

(星様)
学校から見て内陸側、つまり山側の方々はとても冷静なのですが、国道45号側から避難された方々はパニック状態でした。濡れた状態の方が来たのは暗くなってからだったという記憶があり、明るいうちは一時避難のような感じでした。
男子高校生などが、案外早くに避難していました。少し下りた所にある老人介護施設の方が避難して来た時に、その高校生達が手伝いをしてくれました。
子どもたちが親と会えて、泣きながら帰る様子もたくさん見ましたが、比較的冷静でした。先生たちも冷静でした。やはり、学校などが崩れなかったのが幸いしたのだと思います。

(聞き手)
地震後に津波が来るという考えはありましたか。

(星様)
全くなかったです。津波の情報は事務の先生から聞いたのですが、多賀城市は関係ないと思いました。
最初に、濡れた方を何人か見た時は驚きましたが、津波に関してはあまり実感がありませんでした。

市職員不在での避難所開設

(聞き手)
避難所運営に関して、特に何か困ったことや、大変だったことはありましたか。

(松浦様)
私は震災当時、学級担任をしていたので、体育の授業のため体育館にいました。体育の授業が終わって、教室に向かう移動途中に揺れ出しました。
もちろん、その前に、緊急地震速報が入って、また間違いではないかと、周囲にいた子どもたちと言っていたのですが、実際に地鳴りと揺れが始まると、まともに立っていられないような状態でした。
子どもたちを廊下にそのまま座らせて、先に体育館を出ていた自分の学級の他の生徒は教室に着いていると予想したので、揺れていてまともに走れない中、慌てて自分の教室に向かいました。
子どもたちは普段から練習していたため机の下にもぐり、頭を隠す姿勢でいたのですが、女子児童の中には、パニック状態に陥っていて、声を出して泣いている子もいました。「とにかくそのまま頭を隠していなさい」と指示をし、私も教卓の下に潜ったのを覚えています。

(星様)
 その当時は、全てがどうしていいか分からない状態でした。
体育館の照明器具が落ちていて、避難所として受け入れ出来なかったのですが、それでも人が大勢来るため、先生たちで全て片付けをして受け入れ態勢を取りました。
寒いのでガスストーブを出し、止まっていたガス栓を開けて使用しました。シートやマットを敷き人が入れるよう準備しました。避難者名簿作りなども先生たちの中でうまく連携していました。組織的な動きというよりは、それぞれが自主的に最善を尽くしていたという感じでした。

(聞き手)
揺れを感じた時点で津波が来るという事は予測していましたか。

(松浦様)
全く予測しませんでした。その時はとにかく揺れが酷かったのですが、校舎は新築直後だったので大丈夫だと思いました。それでも北校舎に繋がる廊下の繋ぎ部分のアルミが明らかに垂れ下がっていました。
揺れが収まるのを待ち、とにかく急いで校庭に避難させました。後から聞いた話では、体育館でかなりの数の照明が落ちていたそうで、あのまま授業をやっていたら、被害者が出ていたかもしれないと思うと未だにぞっとします。

(聞き手)
松浦先生から見て、住民の方がパニックに陥っている様子などは見られましたか。

(松浦様)
私は子どもたちと一緒に校庭に避難してから、そのまま職員室経由で多目的ホールに入ったため、断片的にしか見てないのですが、そこまで泣き叫ぶ、あるいは腰を抜かすといったパニック状態の方は見受けられませんでした。
あの時、雪が舞っていてとても寒く、子どもたちは着の身着のままで、みんな震えている状態でした。校舎内は危険だと予想していたので、体育館に避難することも考えましたが、照明が落下していたため危険な状態だと判断しました。保護者への引渡しがある程度落ち着いた段階で、残った子どもたちを多目的ホールに誘導しました。その後、次々と住民の方が多目的ホールに入って来ました。
そして、校長の指示で、担任でない教員に、落下した照明のガラス片などを綺麗に撤去してもらい、中に人が入れるスペースを確保してシートを敷き、避難所として使用出来るようにしました。
あくまで学校なので、第一優先は子どもたちです。
そのため、子どもたちの安全確保のためのスペースを作る必要があったのですが、住民の方が次々と避難して来ていました。校長からもそういうスペースを作るように指示がありましたが、私の学校の教員は非常にフットワークが軽く、一つの指示に対して十以上の働きをして、最適な状況を作っていました。
夜に向けて、理科室からアルコールランプやろうそくなどの実験用具を持って来たのもそのひとつです。普段からのチームワークやフットワークが物を言ったのでしょう。その時はもう、自主的な動きに驚きの一言でした。

(聞き手)
 今回の震災の対応で良かった点、反省点はありましたか。

(松浦様)
マニュアルは必要だと思いますが、あくまでもマニュアルであって、それを100%実行することは出来ないと思います。
また、それ以上に、マニュアルどおりの行動に拘束され、がんじがらめになるということが個人的に怖いと思います。マニュアルを作るのも人で、実行するのも人なわけですので、臨機応変に対応できる人を育てる事が重要なのではないでしょうか。
そのため、今回の大震災を振り返って、得たものや反省点などをまとめて、お互いに共有し合うことが必要なのではないかと考えています。単にマニュアルを一本作ったから完成ではなく、人を育てていかなければいけないという事は強く感じています。

(星様)
私自身、防災計画や防災マニュアルといったものは全く自分の中になくて、行き当たりばったりであった事が反省点です。
学校避難所になった場合、市職員の方が開設のために来るという事も当時はわからず、学校で仕切ってやっていていいのだろうかと思いながら対応していたので大変でした。
地区での防災事情なども全くわからない状態で働いていたと反省しています。
また、地区によって防災マニュアルは違ってくると思います。転勤のある職業でもあるため、転勤した先ではきちんと確認する必要があると思いました。

(聞き手)
 多賀城市の復旧・復興に関しては、どのようにお考えなのでしょうか。

(松浦様)
復旧が早いという話も聞きますが、私の学校一つを例にとってみても、まだ子どもたちの中には仮設住宅から通っていたり、みなし仮設住宅の民間アパートから通い、自宅に戻れないという子どもたちがたくさんいます。復旧・復興に向けて更なる加速をお願いするとともに、今回の経験を風化させないような手立てをお願いしたいと思います。

子どもたちの心のケアの問題

(聞き手)
震災に関しての授業はしていますか。

(松浦様)
私は現在、担任ではないので、授業自体は持っていませんが、機会があればやってみたいと思います。多賀城小学校では幸いにも、怪我をした子や亡くなった子どもはいませんでした。
しかし、中には自分の家族を亡くした子もいます。時間が経っても、震災のショックやトラウマを抱えていて、地震の前に鳴る警報を聞くだけで泣き出してしまう子もいるようです。
そうしたデリケートな部分もあり、子どもたちのケアや配慮を考えると震災の現状をあからさまに授業に取り入れるというのは厳しいと思います。
ですが、いずれ、次世代の子どもたちに向けて、多賀城市で起きた現状を教育という事で伝えていくべきだと思います。

メンタル面への復旧復興施策

(聞き手)
養護教諭の星先生の立場から見て、子どもたちの気持ちの変化はどう映っていますか。

(星様)
良くなっている子もいますが、気にかかる子や少し手がかかる子というのは、保護者がメンタル面や経済的に苦労されている影響を、ダイレクトに受けている部分があると思います。
保健室に来る子の話を聞くと、家族の職場が変わって凄く忙しくなったという話もあり、寂しい気持ちを抱えているのかなと思うこともあります。
子どもを育てている保護者の生活などが落ち着かないという問題が表面化してきて、スクールソーシャルワーカーの先生にも、じっくり見守っていくべきだとアドバイスを受けました。
保護者から何か相談などがあれば、お話は聞きますが、こちらから単刀直入に聞くことはなかなかできません。そういう面も復旧、復興の取り組みの中に加えていってほしいと思います。
今、多賀城小学校ではスクールソーシャルワーカーにたくさん活動してもらっています。保護者の悩みの相談を受ける件数も随分増えてきています。

市・学校・地域の連携の具体化

(聞き手)
 この震災を通じて、後世に伝えたい事や教訓は何でしょうか。

(松浦様)
情報を共有化するための学校・行政・地域相互のパイプを太くしていくべきだと思います。
先日、多賀城市の総合防災訓練を実施するという事で、私の学校も会場の一つとなり、参加する機会を得ました。
こうした訓練を積極的に行い、実際に何が問題なのかを訓練の中から三者相互に洗い出していくべきだと思います。
また、学校と行政、そして地域住民のトライアングルがしっかりと連携して訓練をしていくべきです。
単に、避難訓練をするのではなく、何らかの行事として取り入れたり、情報交換の場を持ったり、普段からいつ起こるかわからない災害に向けて備え、メンタル的にもしっかりと意識を高めていく必要があると痛感しています。

(星様)
毎年転勤があって、震災の時にいた先生が今では半分くらいになりました。
そのため、あの時の多賀城小学校の状況を先生たちも語らなくなってきています。
それは学校に限らず、それぞれの職場や地域でも言える事だと思うので、震災を経験して得た感覚や出来事、私たちで言えば学校の中の様子など、雑談混じりでも構わないので伝えていくべきだと思います。